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東京地方裁判所 昭和44年(刑わ)732号 判決

被告人 原田誠司 外二六名

主文

1  被告人原田誠司を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

2  被告人水口俊典を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

3  被告人今井澄を懲役二年六月に処する。

未決勾留日数中二七〇日を右刑に算入する。

4  被告人成川秀明を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

5  被告人田尾陽一を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

6  被告人東晃史を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

7  被告人内田雄造を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

8  被告人安東誠一を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

9  被告人嵯峨一郎を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

10  被告人三吉譲を懲役二年に処する。

未決勾留日数中二七〇日を右刑に算入する。

11  被告人角田隆司を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

12  被告人大橋憲三を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

13  被告人大永貴規を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

14  被告人宮本次郎を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

15  被告人高井晃を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

16  被告人久保井拓三を懲役三年に処する。

未決勾留日数中五七〇日を右刑に算入する。

17  被告人荒岱介を懲役三年に処する。

未決勾留日数中二四〇日を右刑に算入する。

18  被告人藤岡弘を懲役二年に処する。

未決勾留日数中二四〇日を右刑に算入する。

19  被告人後藤強を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

20  被告人東諄治を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

21  被告人森清高を懲役二年に処する。

未決勾留日数中二四〇日を右刑に算入する。

22  被告人阿部雄藏を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

23  被告人渡邊元彦を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

24  被告人竹村喜一郎を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

25  被告人寺田哲を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

26  被告人西浦隆男を懲役二年六月に処する。

未決勾留日数中二四〇日を右刑に算入する。

27  被告人池田郁英を懲役一年に処する。

但し、本裁判確定の日から二年間右刑の執行を猶予する。

理由

(犯行に至る経緯)

一、紛争の発端。

戦後の医師法の一部改正により発足したインターン、すなわち医学部卒業後医師免許を得ようとする者が国家試験を受けるための資格の一つとして指定病院内において指導医師の監督の下に医療行為を行う臨床医学の実地修練制度は、修練生が医師でも学生でもなく身分が不明確で、生活面の保証もないうえ、指定された病院の中には臨床修練の場としてふさわしい人的物的設備を備えたものばかりでなかつたことから発足当時から改善を求める声があがつていた。しかるに、所轄当局において何らの改善に著手しなかつたため昭和三九年ころから廃止運動にまで発展した。

かくして、昭和四〇年ころになりようやく医育者らの間から同制度の改善の気運があらわれ、同年、全国医学部長全国病院長会議において改正に向けた意見が出され、次いでそのころ発足した卒後の教育研修に関する懇談会において、医師会から出された改正案につき検討が加えられ同四二年五月ころ答申案が出され、これを受けた厚生省は同年七月右答申案に基づき従前のインターン制を廃止し、大学卒業後ただちに医師の国家試験の受験を認め、合格者には医師の資格を与えるとともに、国家試験の合格者には義務的に大学病院あるいは国が指定した病院で二年以上の研修を経た後、本人の希望により病院長の証明書を国に提出すればその旨が医籍に登録されること、研修生には謝礼金が支給されることを骨子とする医師法の一部改正案(以下、登録医法案という。)を国会に上程した。しかしながら、右法案に対しては学生からインターン制の矛盾に正しく答えるものではなく、特に医籍に登録する点をめぐり医師に二つの身分を作る結果になるなどの反対もあり、右法案は結局、医師は免許を受けた後も二年以上大学の医学部もしくは大学附置の研究所の附属施設である病院又は厚生大臣の指定する病院において臨床研修を行うよう努めるものとする、病院長は臨床研修を行つた者があるときは当該臨床研修を行つた旨を厚生大臣に報告する旨に改められ、指導病院の育成等の面の予算的措置を組むことの附帯決議を付して同四三年五月可決成立した。

東京都文京区本郷七丁目三番所在の東京大学医学部内附属病院においても、卒後の修練について、医学生らの主張する自主研修プログラムの受入・受入人数等について毎年のように大学側と学生との間に意見の対立から紛争を生じ、同四一年ころ全国的組織の青年医師連合(以下青医連という。)が結成されてからは、青医連が附属病院長宅に押しかけ自己の主張する受入人数を認めさせたり、インターン願書提出拒否・国家試験ボイコツト等の方針を決めその運動を推進し、それに同調しない修練生に対しスト破りと称してボイコツト決議をしたり、説得と称して総回診に従事する修練生をこつきまわしたりなどして修練を妨害する事件(以下、村八分事件という。)までおこした。

そして登録医法案が国会で審議されはじめたころからはこれに反対し、同四一年及び同四二年青医連東大支部は、同四三年青医連結成準備会東大支部や医学部自治会らと同四二年一二月一一日ころ医学部長および附属病院長に対し前記改正案に対し反対声明を出すこと、自主研修プログラムを承認することの要望書を提出しその話合を求めた。しかしながら当時の医学部長豊川行平、附属病院長上田英雄らはそれぞれ同法案の作成に尽力し、ないしは賛成の立場をとつていた者であり、その話合に難色を示し青医連との話合については、青医連が前記村八分事件等における行動や代表者の名前など組織が明かでないことなどに鑑み申合せどうり学生自治会正副委員長以外の者とは会わないとしてこれを拒否し、話合のつかないまま同四三年一月下旬をむかえ、同月二九日、医学部学生、修練生らは無期限ストライキに入りその間の指導を右の者らが合同して結成した東大医学部全学闘争委員会(以下全学闘という。)に委ねた。

このようにして同年二月一九日正午ころ、前記上田病院長が偶々来客らと附属病院付近を通行中、話合の場を求める医学部学生および青医連所属の修練生らに取囲まれ、話合を強く要求されるというはめになり、同院長はは三階の上田内科で会う旨を一旦は約しながら結局約を果さず病院から退出した。これに憤激した右学生らは同日午後七時ころ上田内科医局長をおとずれ、昼間の話合を求める騒ぎの際春見医局長において学生らに対して暴力をふるつたとの問題について、翌朝七時ころまで同医局長に謝罪文を要求しつづけたという事件(以下、春見事件という。)が発生した。

医学部ではこの事件につき早速学生対策委員会に対し事情調査を依頼して目撃者らの供述から処分対象者の確定をはかり、他方学生委員長に学生らからの事情聴取を依頼した。同委員長は同月二八日ころ医学部自治会委員長らに事情聴取したいから出頭するよう連絡したところ、同委員長から全学闘を認めなければ自分を含めてすべての学生の出頭を拒否する旨の回答があり、次いでその翌日ころ、多数の学生らが学生委員長室に押しかけあくまで個人から事情を聴取するなら妨害する旨通告し、いずれも事情聴取に応じない旨の態度を表明したので、学生ら個人からの事情聴取を断念して処分案を作成し、同年三月五日ころ学部長会議に、同月一一日ころ評議会にそれぞれ提出した。右処分案を審議した両会議でも学生からの事情聴取手続の欠如が議論の中心となり、同手続は処分を決定する際の重要な事項であることを再確認しつつも、結局、長期間にわたり授業等の放棄が行われ、学生側代表との話合も中断している異常事態であり、学生側の右態度からみて改めての事情聴取も期待できないとの判断から、いずれもやむを得ない例外的処置として右処分案を承認し、同日医学部長名で三吉譲、粒良邦彦(以下、粒良という。)ら一二名の学生らを前記春見事件に関与したとして退学、停学、譴責のいづれかの処分に付した(以下、医学部処分という。)

二、医学部処分撤回闘争と第一次安田講堂占拠。

全学闘の学生らは医学部処分に対し、同処分が、①処分前の事情聴取が行われなかつたこと、②活動家を追放しようとする政治的処分であること、③不当に苛酷であること、④事実誤認があり事件当時現場にいなかつた者をも処分の対象にしていること、などを理由にその白紙撤回を求めるとともに、総長に会見を求めるなど、いち早く抗議行動をおこし、同月一二日に医学部中央館三階および地階を占拠し、次いで同月二八日に予定された全学卒業式を、更に翌月一二日に予定されていた全学入学式をいずれも実力で阻止する行動に出た。

他方、一般学生、研究者からも医学部処分に対し再調査、再検討を求める声が次第に高まり、特に同年三月二六日には医学部講師高橋晄正、同原田憲一らから被処分者の一人粒良のアリバイを立証する報告書(以下、高橋メモという。)が公表されるにおよび医学部処分の当否が大きくクローズアツプされるに至つた。これに対し、医学部でも検討委員会を設け高橋メモの証拠価値について検討をはじめるとともに、出頭した粒良から事情を聴取し検討を続けたが結論を出さないまま六月をむかえた。そのころになり医学部の右のような態度や、全学闘の間にも闘争をやめ処分の減軽を求める声も出はじめるという情勢に焦慮した全学闘の一部学生らは、①不当処分を白紙撤回すること、②研修協約の締結のための医教授会団交を設定すること、③事件一切の責任は大学当局にあることを認めること、を主張し、同月一〇日大河内総長あてに大学当局が要求を受入れなければ時計台占拠を行う旨通告したうえ、同月一五日東京医科歯科大学の社学同系学生らの応援を得て約七〇名の学生らが武装して実力による大講堂の占拠を決行した(以下、第一次安田講堂占拠という。)。

三、機動隊導入から大河内総長辞任まで。

第一次安田講堂占拠に対し、大学当局は、右占拠は研究教育のための事務機構を基本から麻痺させるものでとうてい黙認しがたくやむを得ないとの判断から同月一七日警視庁所属の機動隊を導入して占拠学生らを排除した。

右第一次安田講堂占拠は医学部学生の多数の支持を得て行なわれたものではなく、むしろ大かたの学生の批判するところであつたが、大学のとつた措置は医学部学生および他学部学生に少なからざる衝激を与え、大学当局が問題の基本的解決を怠りひたすら管理者的立場に立つて権力的に闘争を圧殺するもので国大協路線を踏襲するものであるとの抗議の声が拡まり、同月二〇日には法学部を除く九学部の学生がストライキを決行し、同月二六日以降文学部では無期限ストライキに入つた。

事態を憂慮した大河内総長は同月二八日安田講堂において総長会見を行い、①機動隊導入はやむを得なかつた、②粒良の処分は医学部に差戻す、③その他の者については本人から申出があれば、総長から医学部教授会に事情聴取するよう申入れる、などを骨子とする所信を表明したが、そのころ右会見をいわゆる大衆団交に切り替えることを主張する一部学生があらわれたこともあり、総長の健康状態が悪化したということで同会見は半ばにして打切られた。そのため学生ら間では総長は所信を一方的に押しつけるのみで根本問題を回避しているとの受取り方をする者が多く事態はかえつて悪化し、翌日には法学部自治会もストライキを決行し、同年七月二日には多数の学生らが再び安田講堂を実力で占拠するに至り(以下、第二次安田講堂占拠という。)、翌三日には医学部、教養学部も無期限ストライキに入り、同月五日には全学的組織の東大闘争全学共闘会議(以下、全共闘という。)が結成され、それに参加した学生らが安田講堂入口にバリケードを構築し占拠の恒常化をはかるなど紛争は全学化した。

全共闘は結成後「医学部処分問題の根本的解決は、機動隊を導入した事の自己批判をふまえて青医連を公認することで初めてあり得るのである。国大協の本質が一切の対等な話合を拒否して、管理に背く者には処分で弾圧せんとするのにあるのをみる時、処分を出さないこと並びに学生・院生に対して大衆団交の場で我々に確約すること、国大協路線に固執し弾圧を行った責任をとつて責任者が辞職する事が必要である」との統一見解をまとめこれを集約した要求、すなわち①医学部処分を白紙撤回せよ、②機動隊導入を自己批判して導入声明を撤回せよ、③青医連を公認し、当局との協約団体として認めよ、④文学部不当処分を白紙撤回せよ、⑤一切の捜査協力(証人証拠等)を拒否せよ、⑥一月二九日より全学の事態に関する一切の処分は行うな、⑦以上を大衆団交の場において文書をもつて確約し、責任者は責任をとつて辞職せよ(以下、七項目要求という。)を七月一五日大学当局に提出してその回答をせまつた。

これに対し大学当局は同年八月一〇日、①医学部処分のうち粒良以外の一一名については再審査委員会を設けて再審査を行い、評議会は同委員会が結論を出し評議会がこれを認めるまで処分を発効以前の状態に戻す、②六月一七日の機動隊導入は大学機能のすみやかな回復を必要とする事情に基づくものであつたが事態を一層紛糾させたことは否定できない、今後警察力の導入は極力さける、③大学の自治と学生の自治の問題を検討するための特別委員会を設置すること、などを骨子とする最終方針を告示(以下、八・一〇告示という。)の形で示すとともに全学生に親書の形で郵送し、同時に豊川行平医学部長および上田英雄附属病院長らの辞任を発表した。しかしながら全共闘は、八・一〇告示は①大衆団交要求に対する拒否回答で大学がまさに問われている問題を理解しないものである、②一部過激派学生の孤立化をはかるものである、③医学部処分について真の不当性を承認せず手続問題に解消せんとするものである、④機動隊導入については自己批判していない、などを理由にこれを拒否し、その後も封鎖を拡げて行つた。このころに至り、民青系学生が東京大学民主化行動委員会を結成し、全共闘系学生による建物封鎖に反対しはじめた。しかしながら紛争は好転せず同年一〇月一二日法学部のそれを最後に全学無期限ストライキに入るなど闘争は深刻化し、かくして同年一一月一日医学部は評議会の承認を得て粒良を除く一一名に対する前記医学部処分を白紙撤回し、大河内総長は①医学部処分について、粒良については大学は不確実な証拠に基づき譴責処分を行つたがこれは重大な誤で、六月二八日の評議会で取消を決定しながらその決定の意味の理解が評議会と医学部教授会との間で食違つたため、粒良の身分が不確実なままさらに四ヶ月も放置され、同人に大きな迷惑をかけた、大学は同人の名誉と人権を深く傷つけたもので、私は評議会を代表して心からわびる、②粒良以外の一一名の者に対する処分については再審査委員会の判断を尊重してこれを取消す、③機動隊導入については生命の危険が切迫している等緊急の場合でない限り学園においては警察力導入というような措置を管理者的立場に重点をおいてとるべきでなかつたことを自省する、などを骨子とする「学生諸君へ」と題する文書を発表して遂に辞任し、同時に各学部長および評議員もそれぞれ辞任した。

四、加藤一郎総長代行の就任から七学部集会まで。

同月四日、総長事務取扱として加藤一郎法学部長が選ばれ(以下、加藤代行という。)、加藤代行は全学集会を行つて紛争の解決に当るとの方針で解決にのり出し代表団の選出を呼びかけたが、このころに至り闘争の主導権問題もからみ全共闘は安田講堂内での大衆団交を提案するとともに封鎖戦術を激化し、これに対し同月一三日前記民主化行動委員会も都内他大学のいわゆる代々木系学生を動員武装して全共闘による封鎖を解こうとして双方衝突し、その対立が激しくなつて来たので、加藤代行は両者の衝突をさけるため同月一八日に全共闘系の学生らと安田講堂内で、翌一九日に、民主化行動委員会傘下の統一代表団準備会の学生らと法文一号館で、それぞれ全学集会のための公開予備折衝を行い、同月二九日の全学提案集会は七項目要求全面承認を固執する全共闘系学生の実力により阻止されたが、加藤代行は同年一二月二日「学生諸君への提案――今後の討議のために」と題する文書を配布し、その中で①大学は自ら非を認める態度および学生諸君らとの討論を通じて問題解決に取組む態度に欠けるなど八・一〇告示の背後にある大学の態度を反省し清算する、②医学部処分については、右処分が教育者としての責任を十分自覚しないままで処分が行われたこと、紛争中にその一方の当事者である教授会による処分が、それを正当化する十分な理由なしに行われたこと、本人からの事情聴取手続がふまれていなかつたこと、などから撤回されるべきものであつたことを再確認する、③再審査委員会は、学生諸君の批判と抗議にふくめられた正当な要求を評議会が受け入れ設置されたもので正当な理由があつた、④機動隊導入については人命の危険、人権の重大な侵害ないしは緊急の必要が必ずしもなかつた六月一七日の事態のもとで管理者的立場に重点をおいて警察力を導入すべきではなかつた、これを今後のいましめとする、⑤文学部処分は撤回しない、などを明かにしたほか、追加処分問題・東大改革への基本的態度などにつき提案し、全学的議長団を選出し全学集会開催の条件を整えるように要望し、これに対し前記民主化行動委員会は右「提案を、検討に価するものであり、学生院生による討論や大学当局との全学大衆団交などにおける討論の一つの素材となりうるもの」と受止めたが、全共闘は前記の態度をかえず、又各学部の学生大会でもスト解除提案は可決されるにいたらなかつた。加藤代行はその後も八・一〇告示の廃止の意向を含むいくつかの見解を発表するなどして全共闘を含む学生らとの討論の機会実現の方策を進めた。次いで、同月二九日文部省側との会談のあと評議会で同四四年度の入学試験の中止を決定したが、同日付および同四四年一月四日に「来春の入学試験について」、「大学の危機の克服をめざして」と題する文書を発表し、その中で同月一五日ころまでに大部分の学部でストライキが解除され封鎖解除の見通しがつけられるようになれば、あらためて入学試験を復活させるために努力したい、理性的討議をつくし紛争を解決し入学試験を実現するため全学集会に参加せよなどと重ねて呼びかけた。同月六日当時代表団の選出されていた法学部ら七学部代表団との予備折衝を行つたうえ同月一〇日の秩父宮ラグビー場で七学部らと七学部集会を行い、同代表団との間に①医学部処分の白紙撤回、②文学部処分は新しい処分制度のもとで再検討する、③従来のストライキをはじめとした抗議行動についてはこれを処分の対象としない、④今後の処分制度について相互に検討する、⑤機動隊導入は医学部学生の要求を理解し根本的解決をはかる努力をつくさないままもつぱら管理者的立場のみにおいてなされた誤を認め、大学当局は原則として学内「紛争」解決の手段として用いない、⑥捜査協力はこれを拒否する、⑦青医連を正規の交渉団体として公認する、⑧八・一〇告示は同四三年一二月三日に大学問題検討委員会を廃止した時点で廃止されたことを認めるなどを明かにしたほか⑨自治活動の自由、⑩大学の管理運営の改革問題など以上合計一〇項目に亘る確認書を交した。

しかしながら、この間、右のような大学側の配慮にかかわらずあくまで七項目要求の全面承認と八・一〇告示の「撤回」とを固執しその要求貫徹のため建物封鎖を拡張しようとする全共闘と、これに反対し大学側の全学集会開催提案に応じ代表団を選出しようとする前記民主化行動委員会との対立は激しくなり双方は角材等を大学本郷構内に搬入した。同四三年一一月二二日ころにはこれに対抗するため全共闘が学外の反代々木系の学生多数を動員して構内に入れるなど力を誇示し、双方とも構内において集会を重ねるうちその対立は更に激化し、同月二九日には全共闘系学生が実力で全学提案集会を阻止したことからこれに抗議する民主化行動委員会との間に衝突が起り、同年一二月二四日ころには医学科全学集会代表団選出学生大会の開催をめぐり、七学部集会開催の前日にはその開催をめぐり、いずれも角材などを振つて衝突し、右一二月二四日の衝突では八〇余名の、翌四四年一月九日のそれでは一〇〇余名の負傷者を出し、特に後者においては大学側が警察官の出動を要請して衝突を阻止したものである。

他方、一般学生も同四三年一一月一四日に法学部学生大会において全学封鎖反対決議をしたのをはじめ、工学部および農学部学生大会において同旨の決議をなすなどようやく全共闘の建物封鎖戦術に反対する動きがあらわれ、同年一二月に入り大学側の前記全学集会への提案がなされてからは、留年および入学試験中止の可能性が高まつて来たこともあり、紛争の早期解決を望む声が次第に高まり、同月二五日に法学部においてストライキ解除案が可決されたことをはじめ経済学部、教養学部教養学科もこれに続いた。

五、七学部集会直後から退去要求まで。

前記七学部集会で一〇項目の確認がなされるや、前記法学部、経済学部、教養学部教養学科に続き同月一一日には理学部、農学部、教育学部、教養学部が、同月一三日には薬学部が、翌一四日に工学部がそれぞれ無期限ストライキ解除案を可決し、又そのころ理学部、農学部、教育学部、教養学部、医学部、工学部、経済学部において封鎖解除決議がなされた。これに呼応して全共闘の封鎖に反対して来た民主化行動委員会およびこれを支持する学外の代々木系学生ならびに一般学生らが自力で封鎖を解こうと動き出し、これに対し全共闘は封鎖の維持拡張をはかるとともに全国の反代々木系学生の支援を求め、双方同月一五日に本郷構内で総決起集会を開くことを計画した。

その間、同月一〇日には全共闘の封鎖する法文一、二号館が前記民主化行動委員会の学生およびその支援学生らの手によりその封鎖を解かれ、翌一一日には法学部緑会委員の学生により法学部研究室の封鎖が解かれたが、一二日には全共闘系の学生らにより再び封鎖され、一三日には工学部七、八号館の封鎖を解こうとした学生院生らが全共闘系の学生に阻止されるなど封鎖解除をめぐる攻防がくり返された。

これら学生の動きに対し、大学当局は同日衝突を回避するため加藤代行名で強い警告を発し、一五日における学外者の立入りを禁止し、東大生についても構内に立入らないことを要請する旨の訴を発表し、翌一四日学内にその旨の掲示をした。しかしながら右大学の訴にもかかわらずそのころから双方を支援する上京組をもまじえたそれぞれ千名ないし二千名の学外学生らが鉄パイプ角材で武装して本郷構内に入り、全共闘側では全共闘系学生および多数の社学同、社青同、中核、反帝学評と称する集団の学生が同構内の正門から安田講堂にいたる両側の建物および同講堂を占拠支配し、同構内の赤門から医学部本館附近を民主化行動委員会およびその支援学生らが支配した。

一五日午後同講堂前で全共闘系学生ら数千名が参加して東大闘争勝利・全国学園闘争勝利・労学総決起集会が行われ、内千名位の学生らは同講堂などにふみとどまつた。

それより先、全共闘系学生らは工学部構内よりガソリン、消火器、硫酸などを搬出し、あるいは附近の敷石をはがして同講堂などに搬入し、右労学集会後は工学部列品館を封鎖し、同日夜八時ころ前記医学部本館を約百名の者で襲い正面玄関の鉄扉を破壊し、安田講堂などでは内部を破壊し窓を覆うなどし、一六日には法学部研究室で資料文献などを破壊して封鎖をすすめ、安田講堂附近では終日敷石をはがして同講堂内の階段窓際などの要所に配置した。

大学当局はこれら学生に対し再三立退きと兇器危険物の撤去を申入れたが、右申入は無視されたので加藤代行は同日所轄の警視庁本富士警察署長に対し「東京大学の本郷構内には多数の学外者および学生が不法占拠を続けているとともに、相当多数の兇器、危険物が搬入、強奪、貯蔵されており、このことによつて衝突による人命身体の重大な危険が続き、研究教育施設の極度の破壊が進行しており、これ以上放置することが出来ない状況におかれている。退去命令に応じない不法占拠者の排除、およびそれに伴う必要な措置をとるため」との理由で警察官の出動を要請し、他方学生らのたてこもつている建物の各所管責任者に対し各建物内の学生に退去するよう勧告を依頼し、翌一七日午後一一時二〇分ころ自ら電話で安田講堂内の全共闘の責任者の一人であると目した被告人今井澄に対し、および別途前記民主化行動委員会系学生の代表者に対し、それぞれ「本郷構内の兇器その他の危険物を除去し又兇器等を使うおそれのある不法占拠者を排除する必要がありますので特に大学の許可を受けた者以外は学外者と学内者を問わず直ちに全員構外に退去し一月一九日午前一〇時までは構内に立入らないで下さい」との退去要求(以下、本件退去要求という。)を出し、且つ、占拠者にその旨伝えるように通告をした。

(罪となるべき事実)

第一、被告人原田誠司、同水口俊典、同今井澄、同成川秀明、同田尾陽一、同東晃史、同内田雄造、同安東誠一、同嵯峨一郎、同三吉譲、同角田隆司、同大橋憲三、同大永貴規、同宮本次郎、同阿部雄蔵、同渡邊元彦、同竹村喜一郎、同寺田哲は東京大学に在学し前記全共闘に参加しあるいはこれを支持し、前記東京大学のとつて来た紛争解決方法に反対しあくまで入試を阻止し、前記七項目要求の全面承認を求め続けて来た者、被告人高井晃は早稲田大学に在学し、被告人藤岡弘、同後藤強は大阪経済大学に在学し、被告人東諄治は大阪市立大学に在学し、被告人森清高は京都大学に在学し、それぞれ社学同に属する者、被告人池田郁英は京都大学に在学し社学同に共鳴していた者で自ら又は全共闘の支援要請に応じ、昭和四四年一月一四日ないし同月一七日までに安田講堂に逐次入つていたものであるが、東京大学の要請により出動して来た警察官が排除にかかろうとも右講堂の占拠を続けようと決意し、

(一)  前記加藤一郎代行の要請により占拠学生らの排除のため警視庁機動隊所属の警察官らが前記講堂に出動して来ることが予想されるようになつた同月一七日夜ころから翌一八日午前七時ころまでの間、全共闘に属する学生らおよびこれを支援する学生ら合計三百数十名の者ら(以下「学生」という。)と共に、警察官らに対して共同して投石・殴打・火炎びんの投擲をするなどの暴行を加える目的をもつて、多数の石塊、コンクリート塊、角材、鉄パイプ、火炎びん、硫酸などを同講堂内の窓際、階段、屋上などの要所に配置して準備し、ないしはこれを知つて集結し、もつて多数共同して他人の生命、身体、財産に害を加える目的で兇器を準備し、

(二)  同月一七日午後一一時二〇分ころ、同講堂を管理する前記加藤一郎代行から、すみやかに同講堂を出て同大学本郷構内から退去するようにとの要求が出され、これを直接あるいはそのころから翌一八日午前七時四〇分ころまでに全共闘の中心的人物を介し、もしくは右代行の命を受けた大学職員の広報マイクによる退去通告の伝達により了知しながら、「学生」と共謀のうえ、右要求に応ぜず同月一九日午後五時三五分ころまで同講堂にとどまり、故なく退去せず、

(三)  警視庁機動隊所属の警察官らが学生の排除に出動して来ることが必至になつた同月一七日夜ころ守備ないし攻撃分担方法などにつき「学生」と謀議を遂げるなど共謀のうえ、翌一八日午前八時ころから一九日午後五時ころまでの間、同講堂周辺および同講堂内で占拠学生の排除および検挙活動の任務に従事中の警視庁第四、第五、第七、第八機動隊等各所属の警察官らに対し、多数の石塊、コンクリート塊、硫酸、火炎びんなどを投げつけ、あるいは角材、鉄パイプで突くなどの暴行を加え、もつて右警察官らの職務の執行を妨害し、

第二、被告人久保井拓三、同荒岱介は日本社会主義学生同盟統一派と称する集団(以下、社学同という。)の指導的地位にあつたもので、昭和四四年一月一五日、前記全共闘が安田講堂前で行つた東大闘争勝利・全国学園闘争勝利・労学総決起集会に参加し、東大闘争の勝利を訴えるなど全共闘の運動方針を支援して来た者であるが、

(一)  同月一六日、同大学が前記のとおり警察官の出動を要請し、建物占拠中の同大学々生らに退去の勧告がはじまり、警視庁機動隊所属の警察官らが占拠学生の排除に出動して来ることが必至との情報が伝わり、全共闘においてもあくまで建物占拠を継続する旨の方針が確認されるや、これを支持し同講堂の占拠を継続しようと決意し、同日夜ころ社学同の指導的立場にある被告人西浦隆男、米田某らと、そのころ同講堂に入つていた関東以東の社学同傘下の学生ら(以下、関東ブンドの学生らという。)および関西地方の社学同傘下の学生ら(以下、関西ブンドの学生らという。)約一〇〇名を同講堂四階会議室に集めて関東ブンド、関西ブンドの合同の集会を開いたうえ、そのころ同講堂を占拠中の学生らが明かに機動隊員らを攻撃目標にして行つた予行演習に参加させたり、窓の閉鎖を強化させ、一七日にも右学生らとそのころ新に同講堂に入つた学生らを再三にわたり右同旨の集会に参加させ、その都度「今晩か明朝機動隊が排除に出動して来るが機動隊を粉砕して同講堂を死守しなければならない、最後まで闘おう」などの演説をくり返し、その参加を呼びかけ、特に同日夜に開いた意思統一集会では同旨の演説をくり返したうえ「帰りたい者は帰れ」と訴え、前記学生らに対して同講堂に踏みとどまり、機動隊員らを同講堂に立ち入らせないようにすでに持込まれている石塊、火炎びん、鉄パイプなどを用いて反撃する旨の意思決定をせまり、これに同調した約七~八〇名の学生らをして同講堂内に踏みとどまらせ、もつて他人の身体財産に対し共同して害を加える目的で兇器を準備して人を集合せしめ、

(二)  右(一)記載のとおり前記学生らに働きかけたうえ、そのころ同講堂内において、右学生らと右機動隊員らに対し投石、火炎びんの投擲、鉄パイプによる刺突などをしてその職務の執行を妨害する旨謀議を遂げ、右学生らにおいて、翌一八日午前八時ころから一九日午後五時ころまでの間、他の占拠中の学生らと共謀のうえ、同講堂周辺および同講堂内占拠学生の排除および検挙活動の任務に従事中の警視庁第四、第五、第七、第八機動隊等各所属の警察官らに対し、多数の石塊、コンクリート塊、硫酸、火炎びんなどを投げつけあるいは角材、鉄パイプで突くなどの暴行を加え、もつて右警察官らの職務の執行を妨害し、

第三、被告人西浦隆男は、社学同の大阪府学連委員長の地位にあり、前記全共闘からの支援要請を受け、そのころ傘下の学生らに全共闘が昭和四四年一月一五日に東京大学構内安田講堂前で行う予定の東大闘争勝利・全国学園闘争勝利・労学総決起集会への参加を働きかけ、これに応じた百数十名の関西ブンドに属する学生らを同月一四・五日ころ前記のとおり石塊、角材、鉄パイプ、火炎びんなど多数が搬入されている同講堂などに集め入れ、右労学総決起集会後も、右学生の多数を前記民主化行動委員会傘下の学生らによる同講堂の封鎖を解こうとする動きにそなえて同講堂内にとどまらせたうえ、附近の敷石を同講堂内に搬入させるなどしていたものであるが、同月一六日、同大学当局が前記のとおり、警察官の出動を要請し、建物占拠中の同大学々生らに退去勧告を行い、警視庁機動隊所属の警察官らが排除に出動して来ることが必至との情報が伝わり、全共闘においてもあくまで占拠を継続する旨方針が決められるや、同日夜ころ社学同の指導的立場にあつた被告人久保井拓三、同荒岱介、米田某らと同講堂四階会議室に関西ブンドの学生およびそのころ同じく同講堂に入つていた関東ブンドの学生ら約百名を集め合同の集会を開き、右学生らに対し「加藤代行が退去要求の最後通告を出し三〇分後には機動隊が入るが断固守り抜く」などの演説をなすとともに、そのころ同講堂を占拠中の学生らが明らかに機動隊員らを攻撃の目標にして行つた予行演習に参加させ、同日から一七日にかけて敷石を搬入させたり窓の閉鎖を強化させたりし、一七日にも右学生らとそのころ新たに同講堂に入つた学生らに対し、再三にわたり右同旨の集会に参加させ、その都度、「今晩か明朝機動隊が排除に出動して来るが機動隊を粉砕して同講堂を死守しなければならない。最後まで闘おう」などの演説をくり返しその参加を呼びかけ、特に同日夜開いた意思統一集会では同旨の演説をくり返したうえ「帰りたい者は帰れ」と訴え、前記学生らに対して同講堂内に踏みとどまり機動隊員らを同講堂に立ち入らせないようにすでに持込まれている石塊、火炎びん、鉄パイプなどを用いて反撃する旨の意思決定をせまり、これに同調した約七~八〇名の学生らを同講堂内に踏みとどまらせ、もつて、他人の身体財産に対し共同して害を加える目的で兇器を準備して人を集合せしめ、

たものである。

(証拠)(略)

(確定裁判)

被告人久保井拓三は、昭和四四年一一月一四日東京地方裁判所において、昭和二五年東京都条例四四号集会集団行進および集団示威運動に関する条例違反罪により懲役五月二年間執行猶予に処せられ、同裁判は同月二九日確定したもので、この事実は東京地方検察庁検察事務官小峰節太郎作成の被告人久保井拓三に対する前科調書により認める。

被告人西浦隆男は、昭和四六年一〇月八日大阪地方裁判所において、公務執行妨害、兇器準備結集罪により、懲役六月一年間執行猶予に処せられ、同裁判は同月二三日確定したもので、この事実は神戸地方検察庁検察事務官森本久作成の被告人西浦隆男に対する前科調書により認める。

(法令の適用)

被告人原田誠司、同水口俊典、同成川秀明、同田尾陽一、同東晃史、同内田雄造、同安東誠一、同嵯峨一郎、同角田隆司、同大橋憲三、同大永貫規、同宮本次郎、同高井晃、同後藤強、同東諄治、同阿部雄蔵、同渡邊元彦、同竹村喜一郎、同寺田哲、同池田郁英らの判示所為中判示第一の(一)の各所為はいずれも刑法二〇八条ノ二第一項、罰金等臨時措置法三条一項一号(なお同法については犯罪後の昭和四七年法律第六一号により刑の変更があつたので刑法六条、一〇条により軽い改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号の刑によることとする。以下同じ。)に、同(二)の各所為はいずれも刑法六〇条、一三〇条後段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、同(三)の各所為はいずれも刑法六〇条、九五条一項に各該当するところ、右各所為についてはいずれも所定刑中懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により刑および犯情の重い同(三)の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内において、後記情状により同被告人らを各主文第一項記載の刑に処し、同被告人らに対しいずれも同法二五条一項により本裁判確定の日からそれぞれ二年間その刑の執行を猶予し、訴訟費用については刑訴法一八一条一項但書を適用して同被告人らに負担させない。

被告人今井澄、同三吉譲、同藤岡弘、同森清高らの判示所為中、判示第一の(一)の各所為はいずれも刑法二〇八条ノ二第一項、罰金等臨時措置法三条一項一号(なお同法については犯罪後の昭和四七年法律第六一号により刑の変更があつたので刑法六条、一〇条により軽い改正前の罰金等臨時措置法三条一項一号の刑によることとする。以下同じ)に、同(二)の各所為はいずれも刑法六〇条、一三〇条後段、罰金等臨時措置法三条一項一号に、同(三)の各所為はいずれも刑法六〇条、九五条一項に各該当するところ、右各所為についてはいずれも所定刑中懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから同法四七条本文、一〇条により刑および犯情の重い同(三)の刑に法定の加重をした刑期範囲内において、後記情状により同被告人らを各主文第一項記載の刑に処し、同法二一条により各未決勾留日数中各被告人の主文第二項掲記の日数をそれぞれその刑に算入し、訴訟費用については刑訴法一八一条一項但書を適用して同被告人らに負担させない。

被告人荒岱介の判示所為中、判示第二の(一)の所為は刑法二〇八条ノ二第二項に、同(二)の所為は同法六〇条、九五条一項に各該当するところ、同(二)の所為については所定刑中懲役刑を選択し、以上は同法四五条前段の併合罪であるから同条四七条本文、一〇条により犯情の重い同(二)の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内において、後記情状により同被告人を懲役三年に処し、同法二一条により未決勾留日数中二四〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑訴法一八一条一項但書を適用して同被告人に負担させない。

被告人久保井拓三の判示所為中、判示第二の(一)の所為は刑法二〇八条ノ二第二項に、同(二)の所為は同法六〇条、九五条一項に各該当するが、判示(二)の所為については所定刑中懲役刑を選択し、同法四五条前段および後段によれば以上の各罪と前記確定裁判のあつた都条例違反の罪とは併合罪であるから刑法五〇条によりまだ裁判を経ない判示各罪について更に処断することとし、同法四七条本文一〇条により犯情の重い同(二)の罪の刑に法定の加重をした刑期範囲内において後記情状により同被告人を懲役三年に処し、同法二一条により未決勾留日数中五七〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑訴法一八一条一項但書を適用して同被告人に負担させない。

被告人西浦隆男の判示第三の所為は刑法二〇八条ノ二第二項に該当するが、右は前記確定裁判のあつた公務執行妨害および兇器準備結集の罪と同法四五条後段の併合罪なので同法五〇条によりまだ裁判を経ない判示兇器準備結集罪について処断することとしその所定刑期範囲内において、後記情状により同被告人を懲役二年六月に処し、同法二一条により未決勾留日数中二四〇日を右刑に算入し、訴訟費用については刑訴法一八一条一項但書を適用して同被告人に負担させないこととする。

(弁護人および被告人らの主な主張に対する判断)

第一、第二次安田講堂占拠以降一・一八、一・一九に至るまでの同講堂占拠および本件各行為について。

弁護人らは、東大闘争の発端となつた医学部処分ならびに文学部処分は、教育および医療の帝国主義的再編に対決する青医連運動ならびに学生の自治活動に対する東大当局の国大協路線に基づく政治的弾圧である、全共闘のかかげた前記七項目要求は東大当局のかかる国大協路線を粉砕し学問の自由を少数特権者による独占と頽廃から解放しようとするものであり、第二次安田講堂占拠以来その占拠の継続は七項目要求の正当性を東大当局に承認させるための手段となしたもので正当なものである(なお、第二次安田講堂占拠以降、大学当局より電気・ガス、水道が切られることなく長期間に亘り供給されて来たことや、昭和四三年一二月に新たに同講堂に電話が架設されたことでも明らかなように、大学当局は全共闘による同講堂の占拠を何ら違法視していなかつたものである。)また東大当局は、七項目要求に対する大河内執行部は強権的に黙殺することにより、加藤執行部は話合のポーズをとりながら結局これを回避し、入試留年問題を持出し、一般学生を恫喝し懐柔してストライキ解除・封鎖解除の決議を行わせ、全共闘の孤立化をはかつたうえ、衝突による危険があると事実を誇張し、警察権力とはかり本件退去要求・機動隊導入を行ない全共闘の弾圧をはかつた。被告人らによる一月一七日、同月一八日、同一九日の本件行動は全共闘の圧殺をはかる大学当局および警察権力に対しこれをはらいのけるためなしたもので正当である旨主張する。

被告人らの行動が、大学当局の学生に対する不当処分の是正と、更に、大学の改革を目的とするものであつても、大学機能の中枢設備の封鎖占拠を継続するというような暴力的手段に訴えることは到底容認し得ないものである。東京大学医学部の研修医問題について、同学部学生と大学当局との間に生じた意見の対立が紛争に発展し、第二次安田講堂占拠となり、全共闘の結成を見るに至つたこと、全共闘が七項目要求を提出し、これに対し八・一〇告示の応対があり、加藤総長代行就任の後は、昭和四三年一二月二日付「学生諸君への提案」、これに続く累次の見解ないしは提案の発表を経て、同月二九日付「来春の入学試験について」、翌四四年一月四日付「大学の危機の克服をめざして」と題する文書の発表の後、同月一〇日の七学部集会における一〇項目の確認に至つたこと、すなわち、加藤総長代行就任後の大学当局は、大学改革の決意を示すとともに、紛争解決のため学生らとの討論を呼び掛け、全共闘の要求にも検討を重ねた。その結果として、七項目要求に大巾に近寄つた一連の回答が出された後、遂に一月一七日夜の退去要求、要請に基づく同月一八日の警察官出動を見るに至つた経緯は(犯行に至る経緯)に認定のとおりである。これらの事実経過を前提としてみるとき、本件退去要求に従わず安田講堂の占拠を続けたことはその動機を考慮に入れても到底実質的違法性を欠く正当なものということはできない(なお、所論のうちガス、水道、電気の供給、電話の架設に関する部分については、第二次安田講堂占拠は職員らを実力で排除してなされたものであるところ、大学当局は第一次機動隊導入による排除が前記のとおり学生らに多大の衝撃を与えた経験にかんがみ、実力による排除を殊更さけ、その直後教職員による勧告、八・一〇告示による同趣旨の意見の表明をなし、加藤代行就任後は同旨の配慮から同講堂の封鎖占拠をも含めた紛争を全学集会による理性的討論により解決すべく努力を続けて来たもので、所論ガス等の供給を絶つことにより予想される事故をも慮りあえて停止の挙に出なかつたことが明らかであつて、右事実から直ちに学生らによる占拠をして正当なものとして認容していたものとはいえない。)また、同四三年末から同四四年一月一四日、一五日ころ全共闘系学生、民主化行動委員会系学生らおよびそれらを支援する学生ら多数が大学構内に入り安田講堂などの建物を占拠し、そのころ石塊、鉄パイプ、角材、火炎びん、硫酸などの兇器劇薬物が多量に搬入され、封鎖をめぐり双方の学生が攻防をくり返したことおよびその間建物などの破壊もかなり進んだことも又前記認定のとおりであるから、かかる状況において大学の管理者として退去要求意思を明確にするとともに建物損壊の防止、学生らの武力による衝突により惹起される惨事を回避するため本件退去要求が通告されたことが認められる。右退去要求に従わず抵抗を続けた被告人による所論一月一七日ないし一九日における本件行動は違法であること明らかである。

第二、不退去罪の不成立の主張について。

弁護人らは、加藤代行は本件退去要求の通告をした当時、真実占拠学生らを退去させようという意思はなく、ただ弾圧の目的を達成するために単に機動隊導入の形式をととのえたものにすぎず、何ら保護に価しないなどと主張するが、前記(犯行に至る経緯)認定のとおり加藤代行は、学生らに対し理性的討議をつくすため全学集会への参加を呼びかけるなど紛争を解決し入試を復活実現するため真摯に努力を傾けるとともに、構内の兇器その他の危険物を除去し人命身体の重大なる危険を除き研究教育の施設の破壊を阻止するため退去要求をなしたことは明かである。

第三、兇器準備集合罪および同結集罪不成立の主張について。

(一)  刑法二〇八条ノ二の合憲性について。

弁護人らは兇器準備集合罪および同結集罪を規定した刑法二〇八条ノ二は、処罰の実質的根拠を欠き、少くともその規制が広きに失し、更に機成要件の内容たる「兇器」「準備」などの定義が不明確で同規定を適用して処罰することは人権保障の機能を営む罪刑法定主義―憲法三一条に反し無効である旨主張する。同法条がいわゆる暴力団の出入りを事前に規制することを機縁として生まれた規定であつたとしても、同条には処罰の対象につき何らの限定もない。又本罪の規定の文言が極めてあいまい不明確な概念を内容とするものとは解されない(最判昭和四五年一二月三日刑集二四巻一三号一七〇七頁参照)から違憲の主張は当らない。

(二)  共同加害目的の存在について。

弁護人らは、本罪が大衆的集団行為の自由に対する侵害の危険性を含むものである以上、共同加害目的の認定については厳格であるべきで、同目的は特に用法上の兇器を準備したとされる集合罪においては共同加害行為の対象が明確になり結果発生の具体的危険が切迫した際に積極的にこれを意欲する場合においてはじめてこれを認定すべきであるところ、本件被告人らにはこれを認める証拠はない旨主張する。

本件証拠によれば、昭和四三年秋ころおよび同四四年一月一〇日ころから安田講堂に多数の角材、敷石、鉄パイプその他が搬入されていたこと、同月一六日加藤代行が所轄の警察署長に占拠学生排除などのため警察官の出動を要請したこと、そのころ全共闘では指導的地位にあつたものがその対策を協議しその結果大学の要請を受け占拠学生らの排除は出動して来る機動隊に対し、これを安田講堂に入れないよう反撃を加えてもあくまで同講堂の封鎖占拠を続ける旨確認し、その旨各セクトに伝えられたこと、そしてそのころ同講堂内にいた学生らは定められた部署につき明らかに機動隊員を攻撃目標にみた予行演習をしたこと、各セクトでは同月一六日から一七日にかけ再三集会を開きその都度指導者らにより機動隊が排除のため出動して来るが最後まで守る必要がある旨演説をくり返され、又投石用の石塊などを窓際に配置したり、バリケード、窓の封鎖の強化などがなされるなどし、機動隊員が占拠学生の排除に出動して来ることは殆んどの学生に知れわたつていたこと、そのころ同講堂の入口の検問はきびしく関係者以外の者は立入れない状況にあつたこと、本件退去要求は直接又は間接にあるいは大学側の広報車からの伝達により同講堂内の学生に伝えられたこと、そのころかなりの数の学生が構外に出たこと、右退去要求を無視して同講堂内に入つたものも右角材、鉄パイプ、石塊などを現認しうる状況にあつたこと、一八、一九日の両日に投げられた石塊、火炎びん類および同講堂内で押収された鉄パイプ、角材などは著しく多量にのぼつていること。そのほか社学同の集会においては投石班、火炎びん班、バリケード班などの部隊編成や火炎びんの投擲方法の指示まで行われたことが認められるから、被告人らは機動隊の導入が必至となつた段階において全共闘の方針に従い、あるいはこれに同調して機動隊員らに対し投石などしてその侵入を防ぎ、あくまで同講堂の封鎖を貫こうと意欲し、被告人久保井拓三、同荒岱介、同西浦隆男らを除くその余の被告人らは同講堂に踏とどまつたものであるからいずれも判示のとおり共同加害目的を有していたものというほかない。

第四、公務執行妨害罪の不成立の主張について。

(一)  職務権限の存在。

弁護人らは、本件では兇器準備集合罪および不退去罪が成立しないから、警察官らの出動は根拠を欠き適法な公務とはいえない旨主張するが、右各罪の成立すること前記説示のとおりであるから、この点の主張は理由がない。

(二)  共謀共同正犯理論の合憲性。

被告人久保井拓三、同荒岱介は全共闘を支援し、安田講堂の占拠学生の排除のため出動して来る機動隊員らに反撃を加えても同講堂の封鎖を継続しようと決意し、前記判示のとおり社学同傘下の学生ら七、八〇名の者らと謀議し同学生らにおいて公務執行妨害の所為に出たものであるところ、弁護人および被告人久保井拓三らはいわゆる共謀共同正犯理論は実定法に根拠を持たない解釈法理で人権保障の機能を営む罪刑法定主義―憲法三一条に反し無効であると主張するが、自らの意思で特定の犯罪を行うため共同意思の下に一体となつて互に他人の行為を利用して各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、その犯罪の実行をなしたときは、謀議に参加したものがたとえ犯罪の実行々為に関与しなくとも自らの意思で犯罪を実行したものとして刑法六〇条を適用してその刑事責任を問うことが何ら憲法三一条に違反するものでないことは確定した判例(最判昭和三三年五月二八日、刑集一二巻八号一七一八頁参照)で当裁判所もこれを支持する。

(三)  警察比例の原則違反の主張について。

弁護人らは一・一八、一・一九の両日警察が東大に投入した人的配置物的装備は、加藤代行の要請した人命身体の重大な危険、研究教育設備の破壊等を除去回避するという目的に比べて不相当に莫大なもので、東大闘争を圧殺せんとする意図に基づく違法なものであると主張する。

本件証拠によれば、一八日には大学構内における排除活動のほかそのころ本郷神田周辺で発生した不祥事件および支援学生が大学構内に立入るのにそなえてのものも含まれているばかりか、当時学生らにより封鎖されていたのは安田講堂のほか医学部図書館、法学部研究室、工学部列品館などの多数に亘り、しかも占拠学生らは封鎖した右建物の窓あるいは屋上から排除に当る機動隊員らに予め準備したおびただしい石塊、コンクリート塊、火炎びん、硫酸などの劇薬を投げつけ、あるいはバリケードの撤去に当る機動隊員らに鉄パイプ、角材等で突く殴りかかるなどしその妨害行為は熾烈をきわめ、そのため安田講堂では排除活動がしばしば中断せざるを得ず警察官らに多数の負傷者を出したあげく、翌日の夕方になり辛うじて封鎖を解いたというものであり、それに前記(犯行に至る経緯)で述べた安田講堂占拠の経緯などに照らすとき、警察権発動の条件、程度、態様において何ら違法はない。弁護人らの主張は理由がない。

(四)  公務執行方法の違法の主張について。

(1) 催涙ガスの使用について。

弁護人らは、催涙ガスの使用は涙腺を刺激し涙を出させるという単純なものではなく、角膜障害、呼吸器障害、皮膚障害を惹起するばかりか、体内に残留して奇型児出産の危険すらあるもので憲法三一条、三六条、警察官職務執行法七条、ジユネーブ議定書等の国際法にも違反する旨主張する。

本件証拠によれば、警察官は一八日および一九日の両日に亘り東大構内における占拠学生の排除のためおよび本郷神田周辺での不祥事件規制のため九〇〇〇発のガス弾(P型弾―クロルアセトフエノンの粉末七〇グラムと雲母粉三〇グラムの計一〇〇グラムがボール紙の筒につめられ、全体の重量は一七〇~一八〇グラムになる。衝撃によつて黒色火薬が爆発し、この勢いで筒の反対側の和紙でとめられた弱い部分がはずれ粉末が飛び散る仕かけである。S型弾―クロルアセトフエノンが粉末状でつめられているが、発射後ボール紙の筒にあけられた穴からスモークが吹き出しスモークとともにガスが拡散する仕かけである。以上の二種類があり、本件ではP型弾が使用された。)および催涙液(有機溶剤である四塩化エチレン九五にクロルアセトフエノン(以下、CNという。)五の割合で溶したもの、表面活性剤のリパールを使いさらに水で六〇倍にうすめて放水車等から放水される。)を使用したこと、逮捕された学生らの中にCNのかかつた着衣を長く着ていたということもあり①顔面、首、両手、下肢、胸部、腹部、背中などに発赤丘疹、水疱、浮腫等の皮膚傷害、②角膜のこんだくによる長期の視力低下、結膜炎による長期の視力減退等の眼傷害、③呼吸器に症状をきたした者、などが多数あり、その中にかなりの重傷者もいたこと、その後CNの毒性について、①CNは強力な角膜刺激作用を持ち、その角膜刺激の衝撃が脳に伝わりその中枢の興奮が涙腺神経から涙腺に伝わり催涙をおこすもので、兎を用いた実験では、CNが直接目に入つた場合は五分以内に洗い流さないと角膜炎のあと必ず角膜こんだくを起し、ときには眼球ゆ着をのこし失明する例がある旨および両眼にCNを受けた一八歳の青年が角膜こんだくが進行し失明状態になつた。②CNは、はじめに皮膚に対して発赤、皮下出血、浮腫の症状を呈し、さらに小水泡を形成しうる。ひどくなれば皮膚に壊死がおこりその後アレルギー性の後遺症を残すこと、③CNが体内に残留すると、胃腸障害、興奮状態、肝臓の変化に関連がある。④CNが細胞分裂に異常をきたし催奇形成を持つ。⑤せまい室内で多量のCNを打込まれて窒息死した。という研究成果および外国の症例などが紹介されたことが認められる。

しかしながら、我国で本件使用前に催涙ガスによる被害が問題とされたのが、昭和四三年一月一七日佐世保での原子力潜水艦入港阻止に出向き催涙ガスをあびた学生らの診察治療に当つた京都府立医大病院皮膚科大島医師が同年九月二八日の二四九回京都皮膚科集談会で「毒物による皮膚炎」と題する発表があつつたにすぎず、本件当時、警備当局では前記の研究成果は勿論、被害についても認識はなく、催涙ガスは一時的に涙腺を刺激して涙を出させるにすぎないとの実験結果に基づきその使用について①予め使用する旨警告すること、②直撃しないで射角を三〇度以上とする旨、定めるほかは使用後の措置について何らの注意を払つていなかつたことおよび本件において催涙ガスが使用された当時の状況すなわち、占拠学生らの妨害行為が熾烈を極め建物に近寄ることすらできず、又講堂内においても身の危険を感じ排除活動をしばしば中断せざるを得ない状況のもとで占拠学生らの妨害行為を制止し逮捕するため、その限度で予め警告したうえやむを得ず使用したものであり、警察官職務執行法七条本文但書に該当する。又主張のジユネーブ議定書についても、催涙ガスが右議定書に禁止するガスに含まれるか否かはしばらくおくとしても我国が右議定書の批准をしたのは同四五年五月二一日の第六三回国会でもあり、本件における右使用をもつて、違法であるというを得ない。

(2) ガス弾の直撃について。

本件で使用されたガス弾はP型弾であるが、これは四秒以内に対象物に当れば対象物に爆発のエネルギーによる物理的衝撃を与えることができる、その威力は二〇メートル離れた場所にあるベニヤ板を撃ちぬくことができるといわれ、人体に直接あたれば人命に危険であるといわれ法務省通達「ガス銃の使用および取扱規程の制定について」でも発射の際は銃口を規定の角度に上げ発射し空気中においては発煙せしめるように定めている。しかるに本件排除活動に出動した機動隊員らは右通達に反し占拠学生に傷害を加える目的でガス銃の直撃の方法で使用し四一名の者に対し頭蓋骨折、迷路振溢症、打撲症、失明等の傷害を負わせた旨主張するところ、主張の通達に主張のような規定のあること所論のとおりで、本件証拠によればガス弾の直撃を受け傷を負つた学生がいることが窺えるが、警察官らにおいて弁護人ら主張のような意図のもとになされたものとの点についてはこれを認める証拠はない。

(3) 機動隊員らは占拠学生らを逮捕するに際し殆んどの無抵抗の者に対し殴る蹴る等の暴行を加えたが、これは重大な違法で警察官の本件公務を違法たらしめるものであると主張する。

本件証拠によれば占拠学生らを逮捕するに際し抵抗をやめた学生らに対し所論のような行為におよんだ警察官らのあることが窺われるが、これをもつて、直ちに公務執行妨害罪の保護法益としての職務執行の適法性が失われるということはできない。

(量刑の事情)

一  一般的事情

本件は、前記のとおり東大紛争の過程で出された前記七項目要求の全面承認を固執する全共闘系学生およびこれを支持する多数の学生らが右要求を貫徹する手段としてこれを大学当局の正当な退去要求にもかゝわらず安田講堂にたてこもり昭和四四年一月一八日、一九日の両日にわたり大学の要請で占拠学生の排除に出動した警察官の職務の執行を妨げたというものであるところ、前記(犯行に至る経緯)および前記判断の項で述べたとおり本件当時同講堂の占拠が許されないものであるのにかかわらず紛争の解決を求める多数の一般学生らの意向を無視して占拠を続けたばかりか、その態様も単なる占拠というには程遠く、備品であるロッカー、机のほか板などを用いて強固なバリケードを構築し、攻撃用として搬入準備したおびただしい石塊、コンクリート塊(人頭大から拳大のもの)、鉄パイプ、角材、火炎びん、硫酸などを排除に当る機動隊員らに投げつけ立入を阻止し、或は、講堂内においては角材、鉄パイプなどで刺突し、劇薬を投げかけるなどして妨害し、その結果警察官に多数の負傷者を出したばかりか同講堂内をいちじるしく破壊しつくしたもので、前記経緯を考慮に入れてもとうてい是認することができないし、又本件ははじめて大仕掛に大学構内において角材、鉄パイプ、火炎びんの猛威を示した事件で、その後の各地の学生らの行動に少なからざる影響をおよぼしたことも又否定できずその社会的影響は大である。

被告人らの本件犯行はその要求貫徹の方法を誤つたものとしても、前記のとおり、東大紛争の当初の段階で大学当局の学生らに対する応対の仕方に、粒良問題にみられるように忠実さを欠いたほか大学の措置として批判をまねく点もあつたことから、学生の大学当局に対する不信を深め、これが本件犯行の遠因になつていること、他方、前記(犯行に至る経緯)で述べたとおり東大紛争を契機として大学・研究のあり方、大学の管理運営の仕方、大学における学生の地位について大学教官に反省を求める結果となつたことも又否定できない。

二、被告人今井澄、同三吉譲に関する情状。

同被告人らは、本件当時東京大学医学部の学生で、ともに全共闘の発足以来先頭に立つてその運動を推進して来た中心的人物の一人である。事態を是正し、既成秩序を改めようとして行動に出る者は、その行動の及ぼす社会的影響を慮り、慎重に手段方法を選ばなければならない。被告人両名は医療制度の改善を唱え、大学の不当処分の是正を求め、併せて大学改革を目指して、それに没頭したものであることは(犯行に至る経緯)に示すとおりであつて、騎虎の勢、安田講堂の実力占拠という非常的手段に走つたのである。事を起した者は、或程度の成果を見届けた時は、機を見てその収拾を図り、その行動が一般社会に及ぼした迷惑と混乱を最小限度にとどめる社会的責任を負うものである。被告人両名は、おそくとも本件退去要求がなされた際、あらゆる行きがかりと目前の障害を克服し、身を挺して退去要求に従い、残余の諸懸案はすべてこれを「大幅な大学改革の必要」を認めている大学当局との間の本来の筋道である平和的討議という方法に委ねるべきであつた。被告人両名が、犯行の後、学業を終え、今日医師として研究と患者の治療とに専念しており、これを生涯の仕事として今後の活躍が期待されるという有利な事情を参酌しても、なお、且つ、被告人両名が他の大部分の被告人らに比して本件の刑事責任を重く問われる所以はここに存する。

三、被告人久保井拓三、同荒岱介、同西浦隆男らの情状。

同被告人らは社学同の最高の指導的立場にあるものとして、前記全共闘を支援し、その傘下の学生らに働きかけ、本件犯行のため同講堂内に踏みとどまらせたばかりか、被告人久保井拓三、同荒岱介は右学生らと機動隊に反撃を加えるためその守備分担攻撃方法について謀議をつくし自らは同講堂外に出て勢力の温存をはかりながら、右学生らをして、占拠学生の中でも最も熾烈な行動に走らせた者であり、いずれも本件犯行に重要な役割を果たしたものである。

四、被告人藤岡弘、同森清高の情状。

同被告人らは、社学同の指導的地位にあり、本件当時も最も激しく抵抗した同派の「分隊長」として傘下の学生を指揮し、積極的にふるまい、特に被告人藤岡弘はバリケードの強化を指揮しあるいは火炎びん投擲班に加わるなど、被告人森清高は傘下の学生らに守備位置を決めたり火炎びんの投擲方法を指導したりし、或は学生らを指揮して投石用の石を作らせるなどし本件犯行に重要な役割を演じている。他方同被告人らはいずれも一家の柱として正業にいそしんでいるなど有利な事情も認められる。

五、その余の被告人らの本件犯行の加担の程度はさほど高くなく、いずれも現在学業又は研究の生活にもどり、或は正業につくなどして、それぞれの道を歩んでいるなどの事情が認められる。

よつて、主文のとおり判決をする。

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